なぜ「残念」? 産業遺産情報センターに行ってみた
なぜ「残念」? 産業遺産情報センターに行ってみた
澤田克己・論説委員

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の全体像を紹介する「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)の一般公開が6月から始まった。九州を中心とした8県に点在する23施設の情報をまとめて紹介する施設なのだが、残念なことに、そういった本来の意義よりも韓国との外交摩擦の新たな舞台に浮上したことで注目を集めている。いったいどんな施設なのだろうか。6月下旬に訪れ、加藤康子センター長に案内してもらった。
加藤さんは30年ほど前から各国の産業遺産を研究し、世界文化遺産登録へ向けた運動を引っ張ってきた立役者だ。センターに掲示された遺産登録までの歩みも、加藤さんが1999年に『産業遺産――「地域と市民の歴史」への旅』という本を出したところから始まっている。英国、米国、オーストラリアでの産業遺産の保存と活用について紹介するこの本で、加藤さんは日本の現状への物足りなさを吐露していた。
そうした思いの結実といえるのが、世界遺産登録なのだろう。幕末から明治期に国としての生き残りをかけて近代化に取り組んだ先人の軌跡を説明する加藤さんは、とても誇らしげだった。鎖国中は禁じられていた大型船の建造に乗り出した日本人が、いかにして近代的な鉄鋼業や造船業を作り上げていったかを紹介する展示は非常に興味深い。幕府による海軍創設の試みや、産業化を図ろうとする薩摩や長州の動きなどが、現在も残る産業遺産という切り口で説明されるのは新鮮でもあった。
だからこそ、本筋とは別の部分で注目される、それも外交的な摩擦の原因となっているのは残念なことである。

日本は「約束」を破ったのか
韓国外務省はセンターの公開開始を受け、「世界遺産に登録された時の世界遺産委員会の勧告と日本が約束した措置がまったく履行されていないことに強く抗議する」という声明を発表した。そして次の世界遺産委員会で、日本に自ら是正措置を取るよう促す決議の採択などを求めると表明した。
康京和(カン・ギョンファ)外相は、そうした決議を採択できるよう協力と支持を求める書簡をユネスコの事務局長に送った。書簡では、登録取り消しの可能性の検討を含めた協力を要請しているという。書簡については、記者会見の質疑応答の中で明らかにされた。その際の外務省報道官の言い方があいまいだったためか、「登録取り消しを求める書簡」と要約した記事もあったが、正確にはそれほどストレートな言い方ではなかった。今年の世界遺産委員会は6月末から中国で開かれることになっていたが、新型コロナウイルスの影響で開けていない。
韓国の言う「日本の約束」とは、2015年の世界遺産委員会で登録が決まった際に日本政府代表が表明したものだ。「1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいたこと、また第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」「インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」といった内容だった。
日本は日中戦争の激化した39年以降、主に内地での労働力不足を解消するために朝鮮半島出身者を動員した。最初は「募集」という形で始まったが、戦況の悪化に従って「官斡旋」「徴用」と強制性を強めた。もっとも「募集」という形だった当初から、日本政府は内地の炭坑等に配置すべき朝鮮出身労働者の数を明示した計画を作成し、植民地だった朝鮮各地の行政が人集めにかかわっていた。
菅義偉官房長官は韓国側の批判に、「わが国はこれまでの世界遺産委員会における決議、勧告を真摯(しんし)に受け止め、約束した措置などを誠実に履行している」と反論した。
では実際にはどうか。現場で見た私は、「うーん」とうなってしまった。菅長官の言うような誠実さはみじんも感じられない。だが同時に、韓国側の「まったく履行されていない」という主張にも無理があったからだ。後日、経緯を知る日本政府当局者から「約束違反だと言われないギリギリ(最低限)のことはやっている」と言われた。まさに、そんな感じだ。
韓国政府当局者にそう言うと、「犠牲者を記憶にとどめる措置はどこにもないじゃないか」と言う。それもそうだなあと思うのだが、そもそも「記憶にとどめる」というのは具体性に欠ける文言なので追及は難しい。ただ、後味の悪さは残る。
日本側の「被害者意識」が背景に
センターにある三つのゾーンの最後となる資料室には「徴用関係文書を紐解く――官斡旋、徴用、引揚について理解できる5つの文書」と題したパネルが掲示されていた。(1)国民徴用令(勅令)、(2)朝鮮人労務者活用ニ関スル方策(閣議決定)、(3)半島人労務者ノ移入ニ関スル件(閣議決定)、(4)出入国管理とその実態・昭和34年(出入国管理白書)、(5)引揚援護の記録(引揚援護庁編)――について、簡単に説明したものだ。パネルの前に置かれた情報端末では、それ以外の資料も見ることができる。そして書棚には、「朝鮮人強制連行」に批判的な本も並べてある。これが、政府当局者の言う「ギリギリ」だ。
徴用に関するパネルの横には、日韓請求権協定の条文が日本語と英語で張り出されていた。何の説明も付いていないが、元徴用工の訴訟で問題となった「(請求権の問題は)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という第2条を読めと主張しているようだ。
加藤さんとは結局、この資料室で4時間ほど話し込むことになった。軍艦島という別名で知られる炭坑の島・端島出身の人々も、会話に入ってきた。

加藤さんたちは、戦時中に端島で暮らしたと主張する韓国人男性、具然喆(ク・ヨンチョル)さんの「証言」がいかにでたらめかを力説した。父親が端島炭坑で働いていたので、自身も9歳だった1939年から45年まで端島で暮らしたと話す男性だ。加藤さんたちが見せてくれた映像によると、具さんは韓国での集会で、朝鮮人の労働者が毎日のように棒で殴られているのを見たとか、わずかな食料をもらうため道端に並んでいるのを日本の軍人が監視していた、などと語っている。2016年に韓国で出版された本では、敗戦直後に日本人は全員で夜逃げし、強制連行で働かされていた中国人捕虜1000人がその際に殺されたなどと証言しているという。
確かに、記事に書くのなら追加取材なしでは危ういと思わせる内容が多い。ただ、だからといって「そんなことありえない」という元島民の証言を材料に否定するのは難しい。そもそも70年以上も前のことなので、ある程度の矛盾や間違いが証言に混じることは避けられない。具さんの証言が信用できないというためには当時の資料などを使った緻密な立証が必要になるが、センターにそんな資料は展示されていない。
加藤さんたちは、具さんが本当に端島に住んでいたのかという点から疑っている。その頃に端島に住んでいた年齢の近い人に具さんを覚えている人などいないのだという。ただ当時の学校の名簿も残っているけれど、そうした書類できっちり確認できたわけではないそうだ。具さんの証言を否定したいという強い思いは伝わってきたが、第三者を納得させるためには説得力のある証拠が必要だということは理解されていないようだった。
加藤さんは、端島炭坑で犠牲になった朝鮮人労働者の数を韓国側が過大に宣伝しているとも怒っていた。死者はそれほど多くないし、事故などの犠牲者はきちんと記録があるという。
それならば徴用工に関する文書を紹介するだけでなく、日本人を含む労働者や死者について具体的な数字を示せばいいだけではないのか。私はそう問うてみたが、明確な答えはなかった。
はっきり分かったのは、加藤さんたちが非常に強い被害者意識を抱いていることだった。特に元島民の人たちの抱く「事実無根の話で自分たちの故郷を悪者にした」という怒りは強い。そうした感情が「韓国への反論」あるいは「反撃」を連想させる展示内容につながっているのだろう。
的外れな時期の「証言」を巡る感情的対立
韓国政府やメディアは、子供の頃に端島に住んでいたという在日韓国人2世、鈴木文雄さんによる「朝鮮人差別はなかった」などという証言がパネル展示されていることにも怒っている。さらに、なぜか問題視されていないようだが、三菱長崎造船所で働いた台湾人徴用工が保管していた給料袋を展示しているのも、韓国への当てこすりであることは明白だ。
厳密に言えば、これらは世界遺産委員会で日本政府が表明した「約束」とは無関係のものだ。ただ日韓双方の感情的対立がよく表れているので、簡単に見ておきたい。
鈴木さんの証言については、「差別がなかった証拠だ」と強調する側とそれに反発する側のどちらも内容をきちんと吟味していないのではないだろうか。証言内容を検討すると、そうした疑問を抱かざるをえない。
鈴木さんは1933年に端島で生まれた。韓国南部・慶尚南道出身で、端島炭坑で働いていた父親がいったん故郷に戻って結婚相手を見つけ、端島で家庭を持ったのだという。鈴木さんの生年を考えれば、父親は遅くとも30年代初めには端島炭坑で働いていたと考えられる。
朝鮮人の労務動員は前述の通り39年からなので、鈴木さんの父親はそれより10年ほど前から端島炭坑で働いていたことになる。父親は、部下を何人か持つ「伍長」という職位にあったそうだ。
そして、鈴木さんが国民学校2年か3年の頃で「戦争が始まってから」と言うから、おそらく42年ごろに一家は端島から長崎に移った。鈴木さんは「炭坑で大きな事故が立て続けにあった。端島にいたら、いつ事故にあうか分からないから出た方がいいんじゃないか」ということになったと話す。そして、長崎の知人を訪ねるという名目で許可をもらい、父親が単身で島を出た。その後、労務課から「まだ帰ってこないのか」と何回も聞かれ、やがて母子は居場所がなくなって長崎に渡ることになったという。
鈴木さんの証言は具体的であり、他の島民たちの話とも食い違っていないようだ。だから、鈴木さん自身が「朝鮮人だから」と嫌な思いをしたことなどないというのは事実だろう。ただ朝鮮人の内地渡航が制限されていた時代から端島炭坑で働き、中間管理職になっていた人物の息子による「いじめられなかった」という証言が、全体状況を代表しているのかという疑問は残る。
それだけではない。鈴木さんの父親は炭坑をやめたかったので、会社にうそをついてまずは単身で長崎へ渡っている。出身地が理由かは不明ながら、離職の自由はなかったことになる。
それに、朝鮮からの労務動員が本格化したのは太平洋戦争の開戦後のことであり、国民徴用令が朝鮮に適用されたのは44年のことだ。となると、鈴木さんは多くの朝鮮人労働者が来る前に端島を離れていたことになる。韓国との争点となっている時期には、そもそも端島にいなかった人物の証言ということだ。一人の元島民の証言として貴重だが、この証言をもって朝鮮人徴用工の待遇を語るのは無理である。
そして台湾人徴用工の給料袋は、不思議な場所に展示されている。
センターは三つのゾーンに分けられている。最初が、世界遺産に登録された「明治期(実際には幕末から明治末期)」の産業遺産に関する導入ゾーン。次が明治期産業遺産のメイン展示、最後が資料室である。徴用制度に関するパネルや鈴木さんの証言は、資料室に置かれている。どちらも昭和期のことだから当然だろう。
それなのに台湾人の元徴用工が太平洋戦争中に受け取ったものを保管していたという給料袋だけは、時代を無視してメイン展示のゾーンに置かれている。袋には給料と控除の明細が書かれており、「徴用工には給料とボーナスが支給されていた」という説明が付いている。資料室で徴用制度のパネルと一緒に展示されるなら理解できるが、この展示方法はいかにも不自然だ。目立たせたいものはメイン展示、隠したいものは資料室に振り分けたと思われても仕方ないだろう。
絵本「軍艦島」と「高島炭坑の惨状」の奇妙な類似
植民地支配を受けた被害者だから韓国側の証言は何でも正しいと主張したり、事実関係があやしくても強引な主張を省みなかったりという韓国の運動団体の手法には問題がある。ただし、逆もまた同じことだ。むきになって正面から対抗しようと無理をしても、共感は得られない。それよりも、第三者に理解してもらえるようにと考えることが大切だ。
加藤さんたちは、端島炭坑を「地獄の島」と形容した韓国の絵本「軍艦島」を問題視する。地下1000メートルの炭坑、45度を超える蒸し風呂のような暑さの中で、乏しい食料だけを与えて12時間労働を強いる。鉄格子のはまった監獄のような宿舎、むち打たれる朝鮮人労働者、伝染病がまん延し、脱走できないよう監視塔から見張る。絵本で描かれる軍艦島は、元島民たちの知る端島の姿とは似ても似つかないという。
ただ実は、端島炭坑に先駆けて開発された近隣の高島炭坑の1880年代の姿は、この絵本から大きく外れているとも言えない。
当時の新聞や雑誌に「高島炭坑の惨状」といった告発記事が相次いで掲載され、大きな社会問題となったのだ。誘拐同然の手口で連れてきた坑夫を劣悪な労働状況で1日12時間働かせた上、「納屋」と呼ばれた口入れ業者が食費などの名目で給料のほぼ全額をピンハネし、外部に手紙を書くことすら許さなかった。少しでもさぼればこん棒で殴り、反抗的な坑夫は後ろ手に縛ってつるし「見せしめ」にしたというのだ。
こうした記事には誇張が入っているようにも思われるが、経営側である三菱鉱業セメント(現三菱マテリアル)が閉山後にまとめた『高島炭砿史』にも当時の状況は載っている。
それによると、83年以降に取られた合理化策に反発した坑夫たちがたびたび暴動を起こした。かっけやコレラ、天然痘が流行し、石炭の産出量は激減した。コレラでは1日の死者が80人を超えた日まであった。天然痘でも計99人が死亡した。逃亡者が出たので監視所を作って取り締まり、近県では労働者を集められなくなって神戸や大阪など遠隔地で募集せざるをえなかったという。
生産性低下に直結する伝染病流行を受けて、会社側は86~87年に抜本的な改善策を取った。改善前後に現地視察をした医師の報告書によると、改善前には、食事は粗悪、住居は不潔、坑夫は裸体、労働時間は1日12時間と散々だった。これが改善され、特に「上水ノ一点ニ至リテハ衛生上賛美スル外ナキナリ」と評価されるまでになった。
端島はこの後に開発が本格化したので、最初から改善後の基準が適用された。それを考えると、問題の絵本は第二次大戦中の端島を舞台にしているはずなのに、それより半世紀あまり前に「惨状」を報じられた高島炭坑の状況を借用してきたようにも思える。本当にそうであるなら、作者は批判されてしかるべきだろう。
無視された日本人労働者の苦難
日本政府は5年前の世界遺産委員会で「犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置」を取ると表明した。外務省のサイトを見ると、ここでいう犠牲者とは「出身地のいかんにかかわらず、炭坑や工場などの産業施設で労務に従事、貢献する中で、事故・災害等に遭われた方々や亡くなられた方々を念頭においている」という注釈が付いている。
「明治日本の産業革命遺産」は、セーフティーネットが整備されていない初期資本主義の時代の産物だ。先進的なアイデアと実行力を持ったエリートたちの成果であると同時に、多くの名もなき労働者たちが文字通り血と汗を流して作り上げた結晶でもある。「高島炭坑の惨状」という当時の記事に描かれた坑夫たちはまさに明治期の日本人労働者であり、多くの苦難を味わった人々である。この人たちが「犠牲者」の定義に当たるのは明らかだ。
しかし、センターでは高島炭坑を含めて「犠牲者」について説明されることはなかった。センターで配布しているガイドブックの石炭編を見ても、「日本の石炭産業の近代化は、長崎県長崎市の高島から始まりました」と説明される一方で、高島炭坑の開発初期に「坑夫の暴動などが相次ぎ」と記述されるだけである。
ここで、冒頭に紹介した加藤さんの著書に戻りたい。加藤さんは「まえがき」で、「産業文化の肯定的な面だけでなく、否定的な面も含めて、産業文化を見直すことは、真の現代史に向き合うことである」と記した。そうした考えに至ったのは、英国の産業遺産を調査して感銘を受けたからのようだ。加藤さんは同書で次のように書いている。
「特筆すべきは、産業遺産保存の先進国のイギリスで、貴族や発明家のもたらした光の部分だけでなく、パンとチーズを求めて真っ黒になりながら働いていた労働者の生活や苦しみをきちんと直視し、そうした陰の部分をも客観的かつリアルに次世代に伝えている点である。日本社会も成熟したとはいえ、文化的に暗い陰の部分を併せ持つ産業文化を、私たちは正しく次世代に伝えていくことができるであろうか。イギリスに見習うべき点は多い」

当然のことながら、高島炭坑以外でも開発の犠牲になった無名の労働者たちはいたはずだ。そういった記録をきちんと展示したのなら、時代は違えど厳しい環境で働かされた徴用工もいたという一文を加える程度のことは不自然ではなかったろう。
韓国に言い返したいという集団心理が強すぎて、加藤さんが抱いていた本来の思いとは違う展示になってしまったのだろうか。そうであれば、残念である。
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